子犬が化けた朝



「うっ・・・ううう・・・」

深い泥の中から無理矢理に身を起こすような感覚は、何度体験しても不快極まりないと
セイは覚醒し始めた意識の中で溜息を吐く。
眠りながら感じていた鈍い頭痛が前夜の飲み過ぎを知らせている。
連休前夜だという事で、少々・・・いや、だいぶハメをはずしてしまったかもしれない。
頭ばかりではなく、胃まで重い。

「・・・みず・・・」

薄く開いた瞼の向こうには眩しい光の世界が広がっている。
時折聞こえる車の音が人々の動き出す気配を教えてくる。
とにかく起きて水分を補給し、シャワーを浴びて酒の名残を消してしまおう。
半ば眼を閉じた寝ぼけ半分でセイはベッドから起き上がろうとした。

「・・・・・・・・・?」

重い。

飲み過ぎたせいで胃が重いのだと感じていたが、そうではない。
何かが腹の上に乗っている。

「・・・・・・・・・?」

ぼやけた瞳でその部分を眺めたセイの身体が硬直した。




「っっっっっっっっっっっ!!」

(なっ、なっ、なっ、何! これ、何っ!)

起き上がろうと自分で捲くった薄手の毛布に隠れていた部分が日差しの下に曝されている。
青い格子柄の寝巻きを纏う細い腰に巻きつけられた浅黒い腕が。

(しかも何〜! これ私のパジャマじゃないしぃぃぃ!!)

問題はそっちか? もっと気にするべき事があるんじゃないのか?
傍から見ればツッコミを入れたくなるが、本人は混乱の極みにいる。
冷静な判断など期待できるはずもない。

「ぅん・・・・・・さむぃ・・・・・・」

激しいタップダンスを踊り狂っていたセイの脳細胞が、隣から聞こえた声に
ピタリと動きを止めた。

――― バッ!

音がするような動きでそちらへと顔を向けたセイが、次の瞬間同じ動きで反対を向いた。

(ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってぇぇぇ!! ど、どういう事、これ!
 何でこの子が一緒に寝てるのっ! っていうか、裸だったよ、今っ!!)

脳内タップダンス再び。
状況は参加者自由無礼講、いっそ床を踏み抜いてしまえとの乱れ具合になっている。

(おちつけ、おちつけ、わたし! 昨夜の事を思い出すのよっ! 冷静に、冷静にっ!)



セイは小さな出版社に勤めている。
社長以下数名という社員は、其々が著書を持つ各分野の専門家でもある。
つまり正しく言えば納得のいく自著を出したい者達が集まって作った会社だ。

社長の近藤は剣道場を経営しつつ、多角的なスポーツ振興に携わってきた。
その中で教育に関する一家言を纏め上げ、地域ぐるみでの子供の育成を呼びかけ続けた。
昔の日本では普通に見られた上の子が下の子を教え、下の子がまたその下の子に教え、
下の子の世話をする事で年長者も人間的に成長するという相互教育論ともいうべきものは
本に纏められ、すでにいくつかの地域がモデルケースとして結果を出しているという。

二枚看板となっている小説は、肩書きだけではあるが副社長の土方がアクションを多用した
硬派で怜悧なハードボイルドを書き、のびやかなストーリーでジュニアSF小説を書く
藤堂は大学生ながら固定ファンが多い。

編集長はかろうじて大手出版社での勤務経験があるが、この永倉という男は
秘境未開地などのサバイバルしたさで安泰な将来を捨てたというだけあって、
相棒カメラマンの原田と共に日本は勿論の事、世界の果てをほっつき歩いてばかりいて
会社のデスクに座っている事など無いに等しい。

かろうじて社員という自覚があるらしい二人の男がいなければ、仮にも会社であるそこは
早々に空中分解していたかもしれない。

その一人斎藤は副編集長という肩書きを無理矢理押しつけられて迷惑極まりないと言いながら、
大量の史料で編集室の一画を専用の空間として出社から退社まで電話番をしつつ、
こつこつと書き上げた日本史研究書はすでに10冊近い。
古代から近世史まで幅広く手がける彼の考察は基礎となる文献資料を堅実に押さえながら、
そこに見え隠れする不明瞭な部分を洗い出し緻密に、けれど少し斜めから考証していく。

もう一人の山崎は経済についてのスペシャリストで、以前は公立大学で経済学部の講師を
勤めていたが、派閥や既成概念に凝り固まった学者気質に嫌気が差したとかで用意されていた
上のポストを蹴ってフリーの身になった。それ以来大手経済紙に原稿を書くかたわら、
空洞化しがちなこの会社の経理を管理している。

他にも大学文学部教授という肩書きにふさわしく古典文学に関する解説書や研究書など
多くの著書を持つ山南や、耽美系少女マンガの神と呼ばれる伊東など、社員ではないが
専属の作家を数名抱えたこの会社を現在コントロールしているのがセイだった。


熾烈な就職戦線を乗り越えてどうにか内定を勝ち取った外資系大手商社は、
セイの卒業時期に合わせたように不況のあおりを受けて日本を撤退してしまった。
国内の会社であれば内定者に対するフォローもあっただろうが、シビアな欧米企業に
それは期待するだけ無駄といえた。
呆然としていたセイに今の職場を紹介したのは、やはりこの出版社の社員に名を連ねる
兄の祐馬だ。

就職氷河期を身に沁みて感じていたセイは形ばかりの面接の際に必死で自分をアピールし、
社長の近藤に人柄を、編集長の永倉に根性を認められ、何故か顔を合わせた瞬間から
互いに敵意を燃やしてしまった副社長土方の反対を押し切って入社する事ができた。

それから永倉に編集という仕事を一から叩き込まれ、資料集めから取材の手配、
予算の見積もり契約文書の作成、保険や税金の手続き管理、執筆に没頭する
独身者の日常生活のフォロー、印刷所やイラストレーターとの交渉、装丁デザイン、
校正、取材途中に人里離れた山奥で行方不明になった者の捜索願い、などなどなど。
時に編集とは掛け離れたありとあらゆる事を背負わされ、走り回り、3年。
ようやく会社にもほんの少しの余裕ができ、アシスタントとしてのアルバイトを雇ったのが
今年の始め。


その時大学2年だった青年は、今年の春に無事に進級して大学3年になっている。
近藤の遠縁で、卒業後は近藤の道場を継ぐ予定になっているらしい。
そうなれば自分は教育関係の仕事に、もっと力を入れられるのだと
近藤が楽しげに語っていた。
という事は、いずれこの出版社もこの青年が継ぐことになるのかもしれないと考えたセイは、
常に自分の傍らに置いて細やかな仕事も丁寧に教えてきた。

浅黒い肌をした長身の青年は武道を学ぶものらしく挙措が整っていて礼儀正しい。
けれど四角張った堅さは無く、いつも優しげな笑みを浮かべ、面倒な仕事を押しつけられても
多少の愚痴混じりに誠実にこなす。
一点だけ難があるとすれば無類の甘味好きな事で、見てるこちらの気分が悪くなるほどに
限界知らずに甘味とみれば手を出し続ける。
どこぞのケーキバイキングで出入り禁止になったらしいと永倉と原田が話していたが、
それもあながち嘘では無いかもしれない。

けれど難は転じれば福となる。
甘味で釣れば結構な無理も効くのだから、時間も体力も無限に必要とするこの仕事には
向いているのかもしれないと、度々菓子で機嫌を取りながらこっそりセイは笑っていた。
「またお菓子で誤魔化そうとするんですから!」と尖らせた唇で、差し出されたお菓子に
かぶりつく時、少し癖のある長めの前髪がふわふわと揺れて何だか子犬の尻尾のように
見えていた。


だからかもしれない。
いつも「神谷さん、神谷さん」と自分について歩く姿が子犬に見えて仕方がなくなったのは。
「神谷さん、大好きですv」と満面の笑みを浮かべて繰り返される言葉にも、
まるで懐いた人に甘える子犬の可愛らしさを感じていた。

そう・・・子犬・・・だったはずなのだ。




そろぅっ、っと腰に回った腕から抜け出そうとした途端、強く力を込めて引き寄せられた。

「んぎゃっ!」

「寒いってば、神谷さん」

セイの方へ向いて横たわっていた青年が、癖のある前髪を肩へ擦りつけてきた。

「もう少し、寝てましょうよ・・・」

そのまま再び眠りに落ちようとする青年の手を振りほどき、セイが起き上がった。

「あ、あああ、あのねっ! ゆ、ゆうべ、わ、わたしっ!」

真っ赤な顔で手元の毛布を握り締めると、青年の身体にかかっていた部分が
セイの手元に引っ張られた。
そこに見えた光景にぐらりと意識が遠ざかりそうになる。

(同じパジャマじゃん! 何? 私が上を着て、ズボンは彼がはいてるって?
 どこの嬉し恥かし馬鹿ップルだっつ〜のよっ! 何やってるのよ、私ぃぃぃ!)

「・・・ゆうべ?」

まだまだ眠そうな青年は、今度は両手でセイの腰を抱き締めて
甘えるように顔を押しつけてきた。

「ちょ、ちょっと!」

(裸で抱きつくなぁぁぁ!!)

「覚えてないんですかぁ?」

少しでも距離を取りたいと必死に身体を捩っている最中に聞こえた間延びした声に
セイの頭の回線が一本繋がった。



昨夜。
連休前に済ませる必要があり、先方へ出向いて打ち合わせをしていた。
ようやく全てを片付けたのは10時近くで、同行していた青年にお腹が空いたと
子犬のような悲しげな瞳を向けられれば夕飯のひとつもご馳走してあげようと
いう気にもなるもので。
けれど時間的に開いている店は居酒屋ばかり。
しかも酔っ払いの騒ぎ声が最高潮になる頃で、できればそんな騒ぎの中に
入るのは遠慮したい。
かといって会社の近くではない出先では、落ち着いて食事のできる店を探すのも大変だ。

さてどうしたものかと思った時に良い店を知っているという青年の言葉に
誘われて行ったのは、少し洒落たバーのような居酒屋だった。
値段も手頃で料理も美味しく、薦められて頼んだ酒も女性向けのフルーティーなカクテル。
欠食児童の如く青年が次々に腹に収めていく料理を少しずつ摘みながら酒で喉を潤し、
明日からの連休をどう過ごそうかと考えていたはずだ。

はずだ・・・が。

セイの顔が青ざめた。
青年がデザートを「かけつけ3杯」と嬉々として頼んだ所までしか記憶が無い。



「ご、ご飯・・・食べた、よ、ね?」

「はい。美味しかったですよ〜。ご馳走様でしたv」

「そ、そう。わ、わたし、ちゃんと支払った?」

「ええ、もちろん。にこにこして、とっても機嫌が良かったじゃないですか」

すりすりとセイの腰に額を押しつけた青年の機嫌も大層良いようだ。
いい加減、離せ! と身体を捩るが、セイより余程大柄な青年がしがみついているのだ、
容易く離れるはずが無い。

「で、でね? どうして私が、ここにいるのかなぁ・・・と」

(しかも、こんな格好でっ!!)

今まで一度として来た事は無いけれど、どう見てもここは青年の部屋だ。
何かのパーティーの時に着てきた一張羅だというジャケットが、無造作にハンガーに
吊るされている。
一人暮らしだと聞いているから彼のアパートなのだろう。

「だって神谷さんが終電出ちゃった、って言うから」

「終電? じゃ、じゃ、タクシーで帰らせてくれれば」

「ん〜、勿体無いじゃないですか。うちは昨日の店から歩いても1時間かからないし、だから」

「だ、だから?」

「うちに泊まればいいですよ、って言ったんですよ。そしたら神谷さんったら」

くすくすと青年がシーツに顔を伏せて笑いを零す。

「わ、わ、わたしが・・・な、何を?」

何だかどうにも嫌な予感に慄きながら、それでも聞かなければならない気がしてセイが問う。

「『そんな事したらお姉さんに食べられちゃうよ』って言うから」

青年の肩が笑いをこらえて震えている。

「『食べられるのは神谷さんの方だと思いますけどねぇ』って答えたんですよ」

セイは真っ赤になった顔を片手で覆った。
この程度の会話は会社では日常の事だ。
原田や永倉達は隙あらばセイにちょっかいを出そうとするし、その流れでセイも
「どうせなら若い子が相手の方が良いですよ」と青年の肩に手を置いて
年上連中を軽くいなしているのだから。

だが、そうは言っても言葉というものは使って良い時と悪い時があるだろう。
自分は最悪の状況で最悪の言葉を口にしたというのか。

「そ・・・それ・・・で・・・」

「ええ。そしたら『獲物はかついで帰るものよね』って、ぴょんっと私の背中に飛びついて」

「ぐっ、ぐぅぅぅ・・・・・・」

それも仕事で駆け回って疲労困憊した時に、よくこの青年に言う言葉だ。
いまだかつて本当に背負わせた事などなかったが。
酔った挙句に交わされた日常会話がどれほど危険なものだったのか、セイは頭を抱えた。

「それからお兄さんの事とか、土方さんへの文句とか、ずっと楽しそうに喋ってましたよ」

「・・・・・・キミの背中で?」

「そう。私の背中でv」

店から徒歩で1時間だとさっき言っていた。
いくら彼が大柄であろうと成人女性を背負って歩くには厳しい距離だ。
ひどく申し訳ない気持ちでセイは項垂れた。

「それは、大変なご迷惑を・・・」

「いいえ〜」

全く、全然、何にも問題ないとばかりの明るい返事が部屋に響く。

「ちゃ〜んとね、ご褒美はいただきましたからv」

「ご、ご褒美?」

「はいvvv」

――― にっこり。

自分の腰の脇にあった青年の顔を見ていたセイが、そろそろと視線を外した。
嫌な予感から逃れるために逸らした眼が捉えたのは、床に散乱する衣服の数々。
今まであえて意識から締め出そうとしていた現実が、清々しい朝日に照らされ
そこに確かに存在した。

ぐらぐらと揺れる脳内のどこかから再び賑やかなリズムが響いてくる。

「美味しかったですよ。ご馳走様でしたv」

(うっぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!)

脳内に鳴り響くカスタネット。フラメンコダンサーが舞い狂う。
なのに気分は瀕死の闘牛だ。




「・・・やさん? ねえ、神谷さんっ!」

受けた衝撃の大きさの余り、呆けたように現実逃避していたセイの身体が揺すられた。
虚ろな眼を向けた先では、未だ青年がセイの腰にしがみついている。

(ああ、どうするのよ。こんな若い子・・・。酒は飲むなって、あれほど兄さんに
 言われてたのに・・・セイのバカ馬鹿ばかっ!!)

「神谷さんってばっ!!」

今にも頭を掻き毟りそうなセイの注意を引こうと青年が声を大きくした。
それが頭に響き、セイが呻く。

「神谷さん?」

突然顔を顰め、頭を押さえたセイの顔を青年が気遣わしげに覗き込んだ。

「頭、痛い・・・大声出さないでよ」

「あ、すみません」

途端にしゅんとして上目遣いに見上げてくる様子は叱られた子供のようだ。

(ああ、もう、本当にどうするのよ、私。今まで酔って居酒屋で寝入っちゃった事はあっても
 男とどうこうなんて事だけは無かったのに! しかもよりによってこの子なんて。
 青少年保護条例に引っかからないでしょうね!)

すでに相手は未青年ではない。
だからこそ教育に携わる近藤にしても酒席に伴う事があるのだ。
セイの脳内はそんな事さえ思い出せないほど混沌としていた。

「神谷さん?」

再び黙り込んでしまったセイに、今度はそっと青年が声をかけた。
不安げな声に意識を引き戻され、セイが溜息と共に腰に巻きついていた青年の腕を剥がす。

「神谷さん?」

慌てて伸ばしてくる腕を押さえ、セイが前髪をかきあげた。

「水、飲んでくる」

「あ、じゃ、ちょっと待ってください」

青年がセイをその場に留めベッドから降りた。
大股で冷蔵庫まで行き、冷えたスポーツドリンクを持って戻ってくる。

「はい、お酒の翌朝はこれが一番です」

「ありがとう」

素直に礼を口にすると隣に座った青年が嬉しそうな笑みを浮かべる。
そんな姿は間違いなくいつもの子犬の風情だというのに。


「はぁぁぁ・・・・・・・・・」

一息にペットボトルの中身を半分飲みきり大きな溜息を吐き出した。
冷たい水分は乾いていた身体を潤すと共に、しなびかけていた脳細胞にも染み渡ったようだ。
青年のサイズであるパジャマはセイには大きい。
きちんとボタンが留められているにもかかわらず、上からちらちらと見える自分の身体に
残されている記憶に無い朱痕が、己の愚かさを嘲笑っている。

混乱して現実逃避しようとも失態は失態。
いつまでも目を逸らしている事などできるものじゃない。
愚行の始末はきちんとつけるのが筋だろう。


「これで連休の予定は、どっかのお寺で厄落としと精神修行に決定だな・・・」

「ええっ? 駄目ですよっ! 約束したじゃないですかっ!」

細い身体に寄り添うようにして、自分もスポーツドリンクを飲んでいた青年が、
慌ててセイの肩をつかんだ。

「約束?」

まだ自分は妙な事を言ったかやったかしたのだろうか、と眉間に皺を寄せた
セイを覗き込み、青年が言い募る。

「この連休はずっと一緒に過ごしてくれるって。この部屋にずっといるって!」

「はぁ?」

「予定は何も無いからいいよ、って。ほら、これ」

ごそごそと枕の下から取り出した自分の携帯を操作していた青年が、
それをセイの耳元に当てた。


『いいよ〜。じゃ、私の連休はキミにあげちゃおう! ずぅ〜っと一緒だ。あははっ!』

『本当ですね? 約束ですよ、神谷さんっ!』

『もっちろんっ! 神谷セイに二言などぬわぁぁぁいっ!!』


セイの脳が落下した豆腐のように形を失う。
なんだ、この酔っ払いは・・・馬鹿以外の何者でもないではないか。
そうか、自分は酔うとここまで大馬鹿に成り下がるのか・・・。

一時去っていた狂乱のリズムが聞こえてきたような気がした。

「あのね・・・」

「はい!」

証拠を提出したのだから約束は果たされるだろう事を疑わない瞳で、青年がセイを見つめる。

「何でそんなもんボイス録音してるわけ?」

「え? だって神谷さん、後で覚えてないとか言いそうだったから」

「つまり・・・私がそこまで泥酔してる、って理解してたって事ね?」

「あ・・・・・・その・・・・・・」

青年の視線がうろうろと泳ぐ。
とはいえセイにしても彼が酔った相手に無理強いをするような人間では無い事を知っている。
先程の楽しげな声からしても、すっかり気を許し隙を作った自分にも責任はあるだろう。
若者が据え膳に手を出すのを責める立場だとも思えない。
反省すべきはどちらなのか、考えるまでもない事だ。


残っていたドリンクを飲み干したセイが青年に身体を向けた。

「全ての元凶は泥酔した私にある。夜中に背負って歩かせたり、迷惑をかけました。
 ごめんなさい」

「い、いえ」

改まったセイの言葉に、青年も背筋を伸ばして返答する。

「でも昨夜の事はキミも成人している事だし、馬鹿な大人の失態としてお互いに忘れましょう」

「神谷さんっ?」

「会社の先輩が酔っ払ったんで一晩泊めた。それだけ。いいね?」

弟が姉を慕うように懐いていると思っていた青年の感情が、自分が思っていた以上に
強いものらしい事は先程からの態度や言葉から察せられた。
けれどこんな愚行で五歳も年下の青年と、ずるずる後を引き摺る関係になるつもりは無い。
セイの中ではそう答えが出ている。

けれど相手はそうじゃなかったらしい。

「駄目です」

ぼそりと一言呟いた後、再び何やら携帯を操作している。
ぴっ、ぴっ、と二度ほど発信音を響かせた後、画面に表示されている画像をセイに向けた。

「・・・・・・なにこれ?」

「今、近藤先生と斎藤さんに送信しました」

「な、何これっ! 何をしてくれちゃってんのぉぉぉっ?」

画面の中では揃いのパジャマを仲良く上下に分けて着た馬鹿ップルが、ベッドに腰掛けて
嬉しそうに手を繋いでいる。

「あれ?」

穴よ開け、いっそ溶けろとばかりに画面を凝視していたセイの視線が一点に留まる。
繋いでいるというよりも、カメラに向かってセイの手を青年が持ち上げて
見せているように思える。

掴まれているのは左手。
カメラに向かっているのは手の甲。
細い薬指から放たれる煌き。

「え?」

そうっと持ち上げた自分の左手薬指に輝くものを見つけて、セイの目が大きく見開かれた。

「え、えぇぇぇぇぇぇぇっ?」

「神谷さん、うるさい」

片耳を押さえた青年が苦笑する。

「う、うるさいじゃなくてっ! 何これっ!」

「婚約指輪ですv」

「はぁ?」

「ほら」

再び操作された携帯の画面には送信先が近藤となっているメールの文面がある。

『私達、婚約しましたv』

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

最早驚きすぎてセイは言葉も出てこない。

「斎藤さんにも同じ物を送っておきましたからv」

にこやかに放たれた言葉にも虚ろな眼差しを向けるだけだ。
斎藤はセイの兄の親友で、現在日本を離れている兄からセイの事を任されている。
言うなればもう一人の兄でもある。
当然同じ会社にいる以上、青年もその事は承知している。
だからこそ自分の保護者的な立場の近藤と、セイの保護者位置にいる斎藤に
送ったと言うのだろう。

よりにもよって。
あんな今時どこの恋人だってやらないような恥知らずな写真を。
自分のところの社長と兄分に送ったというのかっ!!

脳内フラメンコダンサーズが一瞬で岸和田だんじり祭りに取って代わられる。
勇壮な和太鼓が乱打され、荒々しい掛け声と共に、周囲全てを押し潰し、なぎ倒す。
荒れ狂う感情に理性という箍は一瞬で跳ね飛ばされる。
衝動に従いセイが手を振り上げた。

――― パシリ

軽い音と共にその手が青年の顔の直前で停止する。
掴まれた腕をもぎ離そうとギリギリとセイが力を入れるが、青年の指は
一向に離れる気配が無い。

「どう、いう、つもりよっ!」

「何がですか?」

噛み締められた唇から押し出されたセイの問いに返す青年の言音は平坦だ。

「こんな、こんな馬鹿な写真を送るなんて!」

ぽろぽろとセイの瞳から涙が零れ落ちた。

この始末をどうつければ良いのか。
もう会社にだっていられない。
兄にも迷惑がかかるんじゃないか。
何もかも、もう全然わからない。


「うぅぅぅ・・・・・・」

俯いた頬を伝った雫が毛布の上に幾つもの濃い染みを作っていく。
それをじっと見ていた青年が微かな溜息を零した。

振り上げられたままだったセイの右手をそっと下し、指を絡めるように繋ぎなおす。
空いている手で目の前にある濡れた頬に優しく触れて親指で涙を拭う。

「すみません。貴女が忘れてしまったから。そして思い出してもくれないから。
 少し意地悪をしたくなったんです」

「だっ、だって酔ってるってわかってたんでしょ?」

時折嗚咽が混じるセイの言葉に青年は静かに首を振った。

「そうじゃない。そうじゃないんですよ、神谷さん。違うんです」

セイに向けてというよりも、自分の身の内で渦巻く感情を宥めるような響きだ。
それは不思議な感情をセイの胸にもたらした。

眠っている何かが呼ばれたようで。
とても懐かしい何かが芽を出そうかとしているようで。
ふわりと柔らかな春風と爽やかな初夏の風が混じりあい、心を吹きぬける。


「私が、忘れたの?」

真っ赤な瞳に映る青年の眼差しはもどかしげで、けれど真摯な光を湛えている。

「私が、何を・・・」

「いいんです。別に思い出してくれなくたって、そんな事はいいんです。
 ただ、今の私をちゃんと見てください。年下は範疇外だなんて切り捨てないで。
 そうしたら、わかります。いつか必ず、わかってくれるはずですから」

微かに頬を歪めた青年が祈るように呟き、柔らかくセイの身体を抱き締めた。

「神谷さん」

――― とん

後頭部に柔らかな振動を感じると同時にベッドのスプリングが軋む。
見上げた瞳の中に遠い記憶が見えた気がして、セイは静かに瞼を閉じた。



(・・・・・・・・・・・・あれ?)

唇に吐息がかかる。

「ちょっと待ていっっっ!」

全力で顔を押しのけられた青年の首がぐきりと妙な音を立てたような気がしたが、
今は気にしない事にして頭を振った。

「あ、あぶない、あぶない。何だか流されそうになっちゃったじゃない!」

「神谷さん?」

目の端に涙を浮かべた青年が恨めしそうに首を摩っている。

「あのねっ! 私は君とつき合うとか恋人になるなんて考えてないから!」

だからこれも返すから・・・と指輪を外そうとした手が強く握られた。

「勿論、恋人なんて考えてませんよ」

「うん、そうだよね。さすがに5歳の年の差は大きいもの」

「恋人なんかじゃなくて婚約者だって言ったじゃないですか」

だから指輪は外しちゃ駄目ですv・・・にこにこと邪気の無い口調に反して、
顔に浮かんでいる笑みが黒く見えるのは何故だろう。

「ちょっと!」

「確かに5歳の年の差は傍から見たら大きいですよね〜。でもきちんと婚約してしまえば
 誰も何も言う事は無いでしょうしね。年齢なんて関係無い感動ものの純愛ですv
 でもこのまま何も無かった顔をしたら、年下の青少年を酔った勢いで食い散らかして
 ポイ捨てしたふしだらな悪女・・・ってなっちゃいますよね?」

言葉を挟もうとしたセイの唇の前に指で戸を立てて青年が続ける。

「神谷さんを信頼している近藤先生はガッカリされるでしょうし、遠い異国で可愛い妹を
 気遣っているお兄さんもショックですよね。ああ、面倒を任されていた斎藤さんの事を
 恨みに思うかもしれませんね。斎藤さんとの友情が壊れてしまう可能性もありますねぇ。
 それに今神谷さんが辞めるような事になったら、あの会社はまともに回らないですよねぇ。
 すぐではなくても、あちこちに不具合が出て潰れちゃうかもしれません。仕事に対する
 責任感の強い神谷さんですもの、そんな事にはしませんよね?」

――― にっこり

セイの逃げ道を情け容赦無く塞いでいくのは子犬ではなく牧羊犬か狩猟犬か。
無邪気な顔をしているペットだって実は鋭い牙を隠し持っているのだ。
ましてこの子は大型犬。

怒りと呆れと動揺による盛大なサンバカーニバルが脳裏で開催されている。
高く響く笛や大気の色まで染め替えるような鈴の音が思考を尚更に乱す。
一夜の過ちなんて自分には絶対に無関係だと思っていたはずなのに、と大混乱だ。
しかもそれがこんな事態を引き起こすなんて。


圧し掛かってくる重みを押し戻す力の無いセイは、精一杯の苛立ちを視線に乗せて
睨みつける事しか出来ない。

「うぅぅぅぅぅ、あんたって子はっ!!」

「ふふっ。神谷さん、可愛いv」

「沖田君っ!」

「約束は守ってもらいます。昨夜の約束も、昔の約束も・・・」

呟く言葉は呼気と共にセイの内へと注ぎ込まれた。



重なった唇が熱を増す頃。
途切れ途切れに響いてきたのは祇園祭のお囃子か。
どこか懐かしいその音色が憤りを溶かしたのか、多大な諦めの心境に到ったセイが
ようやく青年の背中に腕を回し、青年は輝く笑みを零す。


そして子犬の皮を脱ぎ捨てた青年は、その朝を境に狼へと変貌したのだった。




背景デザイン&作成 / uta様 〔UTAKATA〕